オランダでは、安楽死を希望する認知症患者に、積極的安楽死を行っている。
何も分からなくなってからでは、安楽死は行うことができないらしい。
つまり、まだ、認知症であっても、物事を判断する力が残っている人が、
安楽死の対象になるというわけだ。
まだ、生きる力のある人に対して、安楽死を行う。
確かに、認知症が進行してしまってからでは、家族にも迷惑をかけるし、
自分自身、何も理解できないので、生きているとは言えないのかもしれないが、
オランダの積極的安楽死は、殺人とあまり変わりがないように思える。
日本では、現在、積極的安楽死は認められていない。
末期の患者さんに対して、
積極的な治療、延命を行わない消極的安楽死を行うことはあるが、
それでも、死を早めるようなことをすれば、殺人罪になる。
私の父は、この消極的安楽死によって、天国へと旅立っていった。
助からないと分かっていたけれど、私が殺したという罪悪感は消えない。
もし、あの時、延命措置を頼んでいれば、
父は、数日間は長く生きていられたかもしれないんだ。
眠ったままだったかもしれないけれど、
私が延命措置を断ったために、あっさりと旅立ってしまったんだ。
消極的安楽死であっても、心の重荷になる。
これが、積極的安楽死だったとしたら、もっと、心の重荷になるのではないか。
死刑執行のスイッチを押すことで、
刑務官が心に重荷を負うように、
医者だって、安楽死を望む患者さんに、毒薬の処方をすることが、
重荷になっていないとは言えないのでは?
ところがだ、日本人の中には、生活困窮者は安楽死させるべきだという意見がある。
自分の支払った税金を、生活保護費に充てられるのは嫌だから、
生活に困ったら死んでくれ、ということらしい。
そういった人たちは、死刑執行のスイッチを
簡単に押してしまうことができるんだろうね。
自分が殺人を犯しているという罪悪感も持たないんだろうね。
法律で裁かれなければ、罪ではないとでもいいたんだろうか。
もしかしたら、数年後の自分かもしれないのに、
安楽死させれば、税金の無駄遣いをしなくて済むとか、あまりににも傲慢だと思うよ。
福祉に回すお金を、税金の無駄遣いと思ってしまう時点で、
その人には、人間としての良心というものが欠如しているんだろうけれど、
自分は、絶対に困窮しないという、根拠のない自信は何処か来るんだろう。
それとも、簡単に安楽死を受け入れるだけの覚悟があるのか?
言葉でも、人を殺すことはできるんだよね。
言葉は凶器だもん。
バッシングに耐えきれず、命を絶つ人がいたとしたら、
間違いなく、神様は殺人としてカウントしてると思うよ。
私には、安楽死のスイッチを押す勇気はないな。
病気が末期で、痛みに耐えられなくなったとしたら、
安楽死も選択肢に加えてもいいと思うけれど、
生活に困ったからと言って、安楽死させるんじゃ、殺人と何も変わらない。
日本人の冷たさに反吐が出るね。
もう少し、想像力を働かせることができないんだろうか。
相手の立場に立って、考えなさいって、習わなかったの?