昨日、メンタルクリニックで受診したばかりだというのに、今日は、もう、希死念慮に苦しめられている。自分で自分の存在を否定し、明るさの見えない将来に絶望感を覚える。マジで苦しい。生きているのが辛い。何故、迎えに来てくれないのか、こんなにも死を渇望しているというのに。
私を苦しめているのは、過去の幻影かもしれない。過去、本当にお金がなくて、家賃が払えないことは当たり前だった。食べるものに困ることも数えきれないくらいあった。子供が病気をしても、病院にも連れていかれない。新しいノートも買ってやれない。
過去の話だと笑い飛ばせるほど、私はできた人間じゃない。再度、そんな生活が待っているんじゃないかという恐怖と戦うのに疲れてしまった。日本のセーフティネットは機能しているとはいえなし、私のような者が申請したところで追い返されるのがオチだろう。
それに、現在の支給額では、何も出来ない。ただ、呼吸しているだけで、生かされていることに感謝しろって言われているのと変わらないだろうと思う。健康で文化的な最低限の生活を送るには、いささか足りていないのではないか。
おそらく、夫が働けなくなったら、子供たちは私の面倒まで見きれないだろう。大人しく死んでいくのが正しい選択だと思うのだ。
夫は退院してから、どんどんむくんでいる。働くことに限界を感じているのも分かる。今すぐ、入院させた方がいいんじゃないとも思っている。夫が働けなくなったら、私の生活は過去へと逆戻りだ。いつも、お金の心配をして生活しなければならなくなる。
そんな生活に戻るくらいなら、死んだ方がずっといい。生きているだけで丸儲けなんていうことは一切ないのだ。少なくとも私には、死は限りなく魅力的に見える。
天国の門をくぐる栄光。でも、その栄光を得るためには生きて迎えを待つしかない。希死念慮が膨らんで、自分を殺してしまわないように、それを宥めるだけで、手いっぱいの私に、これ以上の負担をかけないで欲しい。
自分が落ちているのは分かっている。以前と比べたら、格段と良くなっているんだろう。でも、希死念慮が影を潜めているのは、お金の心配がない時だけで、それ以外の時には、私の首を絞めにかかってくる。私は1人では何も出来ない。誰かの助けを借りないと、生活していくのも難しい。
病気が再発するまでは、こんなではなかった。希死念慮はあっても、手が付けられなくなるほど暴れることはなかった。それなのに、今の私は希死念慮に支配されている。
私は不老不死は望まない。希死念慮を取り払ってもらえれば、日常生活が送れると思う。でも、今の私は希死念慮に圧し潰されている。生きることが辛くて、どうすればいいのか分からない。
心の病は、良くなっているように見えても、何かのはずみにドーンと落ちる。そこで踏ん張れないと、悪魔に魅入られてしまう。私はクリスチャンだから、自殺は罪だ。この罪を犯してしまうと、栄光の門をくぐれなくなってしまう。どんなにしんどくても、生きなければならないというのは、拷問に近い。
本来、生き物は生きることに執着するものだというが、死を渇望するところが、心の病であるということなのだろう。もう、いい加減、疲れてしまった。起き上がって歩き出す力は残されていない気がする。だからといって、地べたに寝そべったままでいるわけにもいかない。
将来に対する絶望感。お金に関するトラウマ。詐欺まがいのことまでして、なんとか生き延びたけれど、もう2度と味わいたくないのだ。希死念慮が私を誘惑する。死んだら楽になれるって。でも、今日も負けずにこれたことを褒めてくれる人もいない。
この葛藤を理解してくれるのは、おそらく、同じように希死念慮と戦ってきた、或いは、今現在、戦っている人達しかいないんだろうか。
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