宗教施設を見て歩くのは好きだけど、神仏など信じていないと長男坊は言う。彼の信仰に関して、とやかく言うつもりはない。日本では信仰の自由は憲法で保障されている。でも、自分の力ではどうにもならない時、神に祈る以外、何ができるというのだろう。
彼が言うには、キリスト教もイスラム教も生まれるはずはないんだそうだ。何か根拠があって言っていたような気がするけれど、良く覚えていない。子供の頃はチャーチスクールに通っていたのになあ。どうして、こうなってしまったのかという気持ちが大きくて、彼の話をまともに聞いていなかった。
長男坊が言うには、この世界は仏教徒ヒンズー教に支配されるはずで、キリスト教の出番はないらしい。ここに不敬虔とはいえ、クリスチャンである私がいるっていうのに、真っ向から否定してくるあたり、空気が読めていない。そんなんだから、彼女の1人もできないんだって軽く突っ込みを入れたくなるレベルだ。
別に、私の信仰を押し付ける気は全くないし、否定するのは勝手だけど同意を求められても困る。私も神社仏閣に行かないわけじゃないけれど、それは建築物として興味があるだけで、信仰の対象にはならない。ゆえにお賽銭を投げることもなければ手を合わせることもない。だからといって、信仰している人を否定することもないが、私にとっての神様は三位一体の神ただお1人。
信仰心が決して厚いわけではないが、偶像崇拝する気もないし、できれば礼拝にだって参列したい。コロナ禍で、礼拝もオンラインになっているだろうけど。
私が母教会が無牧になった時、無牧の教会には行きたくないとコミュニティバスで行かれる大きな教会に通うようになった。信者の数も多くて、第一礼拝から第三礼拝まであった。母教会は小さくて、多分、オンラインでの礼拝は行っていないだろうと思ううのだが、その大きな教会はその当時からオンライン礼拝をおこなっていた。
いつの間にか、そのオンライン礼拝すら視聴しなくなってしまったが、信じる気持ちに変わりはない。苦しい時の神頼みってうわけじゃなく、人生が上手くいっている時にも感謝の気持ちは忘れない。
私は礼拝堂の雰囲気が好きだ。プロテスタントなので、礼拝堂は会議室に十字架を置いたようにしか見えないのだが、やはり、神聖な場所という雰囲気がある。洗礼を受けた教会は花すら飾っていないくらいだったが、十字架に花を手向けることすら偶像崇拝に近づくという趣旨があったのではないだろうか。
それにしても、神仏を信じないとなったら、本当に何に縋りつくのだろう。人の力には限界がある。この世は偶然ではなく、必然でできている。小さな奇跡の積み重ねがなければ、平穏な人生は歩めない。その奇跡を起こしているのが神様だということだ。
もちろん、キリスト教を信じているからといって、いいことばかりが起きるわけではない。試練もトラブルもアクシデントも山のように起きる。でも、その中でも、私には主がついていてくださるから大丈夫と思えることは、大きな恵み以外の何物でもない。
主を賛美し、祈る。プロテスタントだから十字を切ることもないし、メダイもロザリオもない。華美な装飾はないし、家にクリスチャンだと感じさせるものがあるとしたら、聖書と讃美歌、聖歌の本が数冊あることくらいだ。本当は、十字架の一つも飾りたいのだが、家族は私以上に不敬虔なのと、夫が宗教としてのキリスト教を嫌っているのを知っているので、敢えて、避けている部分はある。
会社なんて経営していると、それこそ神様に縋りつきたくなることが山のようにあるわけで、夫は洗礼を受けているにも関わらず、神社を参拝したりする。その横で、私はひたすら主の祈りを唱えているわけで、ここでも温度差がはっきりと分かれてしまうのだ。
長男坊だって、無神論者ではいられなくなる時が来るだろうと思っている。その時、どんな宗教に頼るか、救いを求めるかは分からないが、カルトだけはやめて欲しいと思う。できればユダヤ教やイスラム教もやめて欲しい。彼の中にもキリストは宿っていると信じたい。いつか八方塞がりで、どうにもならなくなった時、教会の門を叩くことを信じているんだ。
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