希死念慮に支配されていた頃、生きていることが辛くて辛くて堪らなかった。今でも、自分が生きていていいのか疑問に感じるけれど、昔ほど、率先して死にたいとは思わなくなった。人生を楽しいとは思えないにしても、これは生命体としては大きな変化だといえる。
生きているのは、小さなラッキーと奇跡が積み重なったから。例えば、事故に遭いそうになった時に、車の方が減速してくれたりとか、思わず車道に飛び出しちゃった時に、たまたま車が走っていなかったとか。これは、奇跡としか言いようがないじゃん。
自分の人生ではあるけれど、何事もなく生きていられるのは、こうしたことの積み重ねだと思うんだ。生きているというよりも、生かされているってこと。まだ、この世界での私の役目は終わっていないんだなって思わさられる。無駄に長生きしたいわけじゃない。自分が生きている意味なんて分からない。でも、おそらく、まだ、この世に仕事が残されていて、それが終わらないと迎えに来てもらえないんだろう。
もし、そうじゃないのなら、なんで死ねないのか説明がつかない。命は一つしかなくて、それを大事にしなくちゃいけないなんて誰が決めた?自分を愛せって言うけれど、自殺は罪だというけれど、命を大事にしなさい、なんて聖書に書いてあったっけ?
むしろ、イエス様の弟子たちは、イエス様の教えを説いたことが原因になって処刑されたりしてるよね。命が大事なら、棄教すれば良かったはずなのに。命よりも大事なことがあったっていうことだよね。
命と引き換えにしても、信仰を守る。江戸時代に踏み絵を踏まずに、処刑されたキリシタンも同様だと思う。命が大事なら、踏み絵を踏んで生き残る道もあっただろうに。
話が逸れた。私が言いたいのは、今、この瞬間を生きていること自体が奇跡だってっていうこと。だって、これだけ地震の多い国で生活しながら、地震によって死んでいないんだから。交通事故にも遭ってないし、突然死を迎えてもいない。一寸先は闇だけれど、少なくとも今は生きている。
もし、ラッキーも奇跡もなかったら、地球の人口は半分くらいになっているんじゃないのか?みんな寸前のところで、生き残っているとしか思えないもん。私にだけラッキーと奇跡が起きたって何の意味もない。
ほんと、この世のすべては偶然じゃなく必然でできているんだと思う。偶然なんてあり得ないって思っている。すべては神様の采配で、私たちは生かされているだけなんだろうって。それも、意味もなく生きているんじゃなく、それぞれに使命が与えられていて、その仕事が終われば、天に召されることになる。
どんなに生きたいと思っても、命を取られる時には取られてしまうものだ。生きていれば、嫌なことも、困ったこともあるし、死んだ方がマシだっていうことなんて山ほどある。それでも死なずに生きているわけで、それは生きている間に、やらなくちゃいけないことがあるからってことじゃないのか。
ラッキーと奇跡がなかったら、私なんてとっくにこの世にいない。自分に与えられた使命が何なのかも分からないけれど、そんなに大きい仕事ではないんだろうとは思う。今から才能が開花して歴史を変えるようなことはないだろう。
そう考えていくと、犬死とか無駄死にとかないんじゃないかと思えるんだよね。一見、無意味な死であっても、誰かにとっては強烈なメッセージを残す。世の中ってそういう風にっできているんじゃないのかって思うんだ。
神様は意味もなく、命を奪ったり、困難を与えたりしないから、どんなことにも意味があって教訓が含まれているんだと思う。どんな些細な出来事でも、それがきっかけで何かが変わるかもしれない。そんな、大袈裟に考える必要はないかもしれないし、多分、多くの人は無意識だろうと思う。私だって、毎日、こんなことばかり考えているわけじゃない。
ただ、たまにラッキーに救われたりするから、生き死にみたいな重大な局面じゃなくてもさ。この世はラッキーと奇跡でできているんだと思うんだ。平和な日本に生まれたことも奇跡だと思うよ。
もし、紛争地帯に生まれていたら、生き残ることに必死で、呪うことしかできない人間になっていたかもしれないし、自らが武器を手にしていたかもしれないわけで、でも、そういったことも、決して無意味ではないと思っている。不要なことを神様は押し付けたりしない。
ラッキーと奇跡の積み重ねがなかったら、って思うとぞっとする。多分、物心つく前に死んでいるからさ。
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