何で、生き物は死ぬことが決まっているのに誕生してくるのだろう。有限だからこそ命が美しく尊いというのだろう。無限だったら命は美しくも尊くもないのだろうか。何故、生きなくちゃいけないのか明確なことを示してくれる人がいない。
聖書には、自殺をしてはいけないとは書いていない。殺してはならない、ということは書かれているけれど、そこから、自分を殺すのは罪という話になっているらしい。でも、キリスト教国であっても安楽死が認められていたりするし、安楽死は自殺とは違うのか。無駄に苦しむよりもさっさと死んで楽になりたいってことなんだろうとは思うけど、認知症になっても安楽死を選べるのは魅力的ではある。
生きることがしんどい時、安楽死を選べるのはいいことなのか。自分の過去を振り返ってみたら、死にたいの連続で、かなり無茶苦茶をやってきた。家族にも迷惑をかけたけど、それは、今、落ち着いているから言えることであって、当時の私には考える余裕なんてなかった。
生きていることに対しての罪悪感。今も消えたわけじゃないけど、当時ほど酷くはない。でも、だからといって自分が生きていることが許されているとも思えないんだ。なんで生きていかなくちゃならないのか。誰も答えをくれない。子供たちが悲しむから?でも、子供たちもいずれは死ぬんだ。私より先には逝かないで欲しいと切に願う。
何故、生命は誕生したのか。植物にしろ、何にしろ、何故、生まれてきたのか。それを知っているのは神様だけなんだろう。
私は心を病んでいる。それは紛れもない事実で、それが原因で死にたがっていたのかもしれない。生き延びることができたのは、子供たちのおかげかもしれない。引き留めるものがあるとしたら、子供の存在以外考えられない。私は私以上に子供たちを愛している。
何故、生きる必要があるのか誰も教えてはくれない。死んだら天国に行くんだって宗教はいう。疑ったらいけないけど、私は永遠の命なんて欲しくない。ただ、無になって眠りたいだけ。もう、誰にも邪魔されることなく、何の不安もなく、安らかに眠りたいだけなんだ。ああ、でもウサギのバロンには会いたいな。天国で待っていてくれてるはずだから。
何で、今は会えないのか。今、会いに行ってはいけないのか。明確な答えをする人はいないだろうと思う。でも、自分が生きているということが苦痛でしかない時もあるんだ。何故、みんな長生きしたがるのか、それが理解できない。長く生きてもしんどいだけだろうと思う。それなのに、生にしがみつくのは何故なんだろう。未知なるものへの恐怖か。
死は、体験できるものではないから、怖いという側面がある。誰もが死に向かっているのに、体験してきたという人はいない。臨死体験した人はいても、死人のうちから蘇ったは主イエスだけだ。そして、主は死について何も語られてはいない。死んだらパラダイスに行かれるって言うけれど、その前に主の裁きが待っているのかもしれない。使徒信条に書かれている。生けるものと死にたるものを裁きたまわんって。
何故、生きなくちゃいけないのか、聖書にも書いていない。心が悲鳴をあげているのに、死という休息を選ぶことも許されないのか。どうしても生きていかなくちゃいけないのか。
おそらく、私の死にたい欲求は心の病が原因なのだ。心が誤作動を起こして、生きることを拒否する。それは、分かっているんだ。この歳まで生きたから、もう、いい加減、解放してくれてもいいんじゃないかと思うけど、どうやら、まだ、その時ではないらしい。
すべてのことには時がある。これはコヘレトの言葉に書かれている。以前の聖書訳では伝道の書だったか。私の死ぬ時はまだ先らしい。健康な心を持っている人は、常時、死にたい衝動を感じることはないのだろうと思う。永遠に生きていたいと思うのかもしれない。でも、私は不死ほど残酷なものはないと思う。不老不死。生き続けなければならないなんて、地獄だと思う。
そこまで生に執着する気持ちが分からない。なんで、生まれてきてしまったのか分からない。楽しいこともあったような気がする。でも、圧倒的に苦しみの方が多いと感じる。命が大事というのなら、その命を大事にできる国家を作ってくれと思う。私にできることは選挙を棄権しないことくらいで、国をどうするか左右できるのは政治家しかいないのだ。
国民の声を聴くとか言いながら、自分たちに有利な国しか作ろうとしていない。ゆりかごから墓場まで国が面倒見てくれる国が良いな。税金は高いだろうけど。もう少し、生きてみようかって思える国にして欲しい。何故、生きていかなくちゃならないんだろう?誰か教えて欲しい。
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