夫が心臓移植しない限り、余命は残り5年と宣告されてから数年が経った。正確に何年経ったか覚えていない。ドクターの見立て通りなら、あと2~3年しか残されてはいない。言い方を変えれば、あと2~3年も生きていることができる。余命宣告を超えて生きる人もたくさんいる。
夫は突発性拡張型心筋症という難病だ。治る手段は心臓移植以外ない。心臓を待っている人の平均待ち時間はおおよそ5年。移植できるのは65歳までという制限がある。夫は5年待ったら、65歳を超えてしまうし、移植してまで長生きする気はないと断って闘病生活を送っている。
まあ、闘病と言ったって、塩分に気をつけること、定期的に病院で診察を受けることくらいしかしていいないし、そもそも、この病気の死因の第一位は突然死だし、ベッドに寝たきりでうーんと唸っているわけじゃない。仕事もしているし、出張にも行く。旅行にも行くし、好きな煙草をやめる気配すらない。
そして、将来の話をする。そんな未来は来ないだろうし、来たところで夫の提案には反対だから、聞き流してはいるけれど、残された時間はそれ程、長くはないんだろうなとは思う。もっとも、憎まれっ子世に憚るで、余命宣告を無視して長生きする可能性だってある。人の生死など、人間ごときに分かるものではないのだろう。
ただ、これが最後のなるかもしれないからって思いで、彼に接することは多い。最後の我儘かもしれないから、最後の頼みになるかもしれないからってきいてあげることは多いけど、それが、私を消耗させていることは確かだ。
疲れた。夫の我儘に付き合っていたら、私の方が先に参ってしまう。それは、決して良いとは言えないだろう。でも、本当は夫よりも先に逝きたいのだ。残された後の面倒臭さを考えたら、生きているのが嫌になる。生活をどう支えるか、人生100年時代に無一文で放り出されて、何が楽しい?会社は残されても、データは夫の頭の中で、死なれたら仕事にならない。
要は、私たちが無知過ぎるのだ。残された時間内に夫の知識を吸収しようという気持ちが子供たちにはない。危機感も感じていない。そう簡単には会社を売り払うこともできないし、売り払っても、生活する術がない。嫌でも、夫に自分の死後、どうすればいいのか考えてもらわないと困る。遺書は書くとは言っていたけれど、未だ書いていないし、彼の中でも死は遠いイメージなのかもしれない。
焦っているのは私だけで、夫も子どもたちも、時間はたっぷりあると思っているのかもしれない。5年生存率50%。この数字が多いのか少ないのか分からないけれど、取引先にバレれば、蜘蛛の子を散らすように逃げ出すんだろうっていうことは理解できる。
だから、夫は自分の病気を隠しているのだろうということは理解できる。だけど、突然、死なれたら、私たちも取引先も混乱するのは目に見えているじゃないか。後始末をどうするかだけでも伝えておいてくれないと困る。ああ、本当に面倒くさい。
もっと深刻にならなければいけないんだろうか。死はいつも傍らに転がっている。いつ動きを止めるか分からない心臓。ここは借家だからここで死なれては困るんだけど、そんなに都合よく外で死んでくれるとは限らない。
最後に退院してから、1度も入院していないことは凄いことらしい。大抵の場合、入退院を繰り返して、徐々に心臓の動きが悪くなり、そのままお亡くなりになることが多いらしいが、夫は禁煙もせず、塩分管理も最近はいい加減だ。もしかしたら誤診なんじゃないかと思うくらい、死という気配がない。
本人も深刻になっている様子はない。金銭的に大丈夫なら、夫がいない生活の方が私は楽だ。気を遣って疲れてしまうこともなくなる。子供たちとだったら、まあいいかで済む問題が、夫がいると大事になる。いつも重圧を感じていて、心休まる暇がない。
でも、それでも、死んで欲しいとかそういうことではないんだ。生きていて欲しいとも思わないけれど、死んで欲しいわけでもない。治る病気ではないし、覚悟はしている。あと2~3年、本当に生きているかどうかも分からないけど、その時間はあっという間に過ぎるだろう。私は思考停止に陥ている。考えられない。危機を危機として感じられない。
永遠に今日が続くわけではないことは分かっている。明日のことさえ考えるのがしんどい。私にできることは何もないから、いつもと変わらない生活を送るだけだ。
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