私には、成人済みの子供が4人いるのだが、自分がどうやって子育てしてきたのか、断片的な記憶しか残っていない。いろいろなことがあり過ぎて、当時の記憶がすっぽりと抜け落ちている部分もある。イヤイヤ期があったのか反抗期があったのか、それすら覚えていないのだ。
子育てはワンオペ。夫は家にも帰ってこなかったし、かえってそれで良かったと思っている。自分の思う通りに躾をして、大きな子供の面倒をみる必要はなかったわけで、ワンオペ辛い時もあったけど、上の子が大きくなると、下の子の面倒をみるようになって大分助けになったことは覚えている。
でも、イヤイヤ期の記憶がない。4人ともイヤイヤ期がなかったんじゃないかと思うくらい記憶がない。Twitterとかで、子育てに苦労している若いママ、パパのツイートを読むと本当に大変そうなのに、私には全くそういった記憶がないのだ。
自分がどうやって子育てしてきたのか、どうやって乗り越えてきたのか、誰も助けてくれない状況の中で、どうやって生きてきたのか分からない。ただ、多分、反抗期らしい反抗期はなかった。私の子育ては中学3年までって決めていて、その後は放任だったから、反抗するものもなかったのかもしれない。大人の世界の汚さは、もっと幼い頃に経験してしまっていたし、達観した子供に成長してしまったのかもしれない。
覚えていることは、本当に少ない。1人目、2人目の時は午前中は近くの公園に遊びに連れていった。3人目4人目になると、公園すら行っていないんじゃないかと思う。近くに子供を連れて遊びに来るような公園がなくなってしまったから(引っ越ししたからね)。兄妹で仲良く遊ぶことの方が多かったんじゃないか。
私は子供たちに、上の子をお兄ちゃんと呼ばせることはしなかった。名前(呼び名)で呼ぶようにさせていた。お兄ちゃんなんだから我慢しなさいとか、そういうことを言いたくなかった。兄妹は同列で、上も下もないというのが私の考え方。今も子供たちは名前で呼び合っているし、それで正解だったと思っている。
断片的に覚えていることはあっても、赤ちゃんとの壮絶なバトルがあったという記憶はない。どうやって子育てしてきたのか自分でも分からない。離乳食は手作りしていた。それは覚えている。でも、それをどうやって食べさせていたのか。その記憶はない。
おかゆを作って冷凍しておいたことは記憶にある。でも、作った離乳食を子供が食べたかどうかの記憶が飛んでいる。我儘に振り回された覚えがない。聞き分けのいい子だったとは思えないのだが、いったい1人でどうやって育ててきたのか。
途中から、夫が帰ってくるようになって手間が増えたことは覚えている。それまでみたいに子供中心の生活から夫中心の生活にシフトしたから。赤ちゃんよりも夫に方が手がかかったという記憶はある。私が作った子供たちの生活リズムを滅茶苦茶にされて非常に腹立たしかった。子育てを手伝うわけでもなく、自分勝手に飲んだくれてる夫など捨ててしまうべきだったのかもしれない。
子育てが大変だったという記憶がない。確かに次男坊は飲まない、寝ない、泣き止まないという手のかかる赤ちゃんだったし、アトピーに喘息があって、週に5日は小児科で点滴を打っていた。でも、それが大変だったかと訊かれると、答えに詰まる。手がかからなかったのは末っ子の娘だったような気がするが、それは娘が赤ちゃんの時、小学生になっていた長男坊が手伝ってくれたからかもしれない。
私の子育て時代は、子育て以外のトラブルが多発していて、生きるか死ぬかの選択を毎日迫られてるような時期だった。だから、その頃の嫌な記憶と一緒に子育ての記憶も飛んでしまっているのかもしれない。
子供たちは長男坊を除いて、全員、不登校になった。無理に学校に行かさなかったけど、高校生になったら不登校が嘘のように消えて、大学、三男坊は大学院まで進学した。長男坊は自衛官になるために、陸自の学校に入ってしまって家を出てしまったし、そこでは反抗するなんてことは出来なかっただろうと思う。
反抗期に入ると、親と顔を合わせるのも嫌、一緒に出掛けるなんて論外ってなると思うのだけれど、そんな素振りは全くなかったので、本当に反抗期がなかったのかもしれない。心配なのは反抗期の無かった子供は、大人になって躓くと言われていることくらいだ。まあ、精神疾患を患って、次男坊と三男坊はメンクリのお世話になっているし、三男坊は無職で仕送りに頼って生活しているし、もしかしたら、これが反抗期がなかったツケかもしれない。
自分の子育てが正しかったかどうかなんて分からない。記憶がないんだもん。写真も残していないし、幼い頃の記憶をたどるものは何一つ残されていない。でも、どうやら私は子供たちに嫌われてはいないようだ。それだけが救いだ。
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