今日は母の日で、普通の家庭ではお母さんありがとうってなるんだろうけど、私は母にどうしても感謝ができない。恨み言ならどれだけでも出てくるが、ありがとうって気持ちにはなれないのだ。金銭的に援助をしてもらった恩はあるけれど、相対的に子供の頃のことの方が大きすぎてありがとうとは言えない。
毒親であっても、無条件に愛するものなんて幻想だろう。虐待する親を親だからという理由だけで愛するなんてできない。赦さなくちゃいけないって頭では分かっているけれど、赦せない自分がいるのだ。これが、母が私にしてきたことを覚えていて、少しでも反省しているなら赦すこともできたかもしれない。でも、記憶は都合のいいように改竄されて、母は認知症になる前から自分がしてきたことを忘れてしまっていた。
母の顔色を伺ってびくびくしながら生活していた子供時代。母に愛されたくて一生懸命いい子を演じてきた子供時代。でも、私は母に愛されたという記憶がない。どうでもいいようなことで、手をあげる母が私を叩かなくなったのは、開き直って、「叩けばいいでしょう。好きなだけ叩きなさいよ!」って叫んだ時からだった。もう、中学生にもなっていたんじゃないのか。
二言目には出ていけって言うから、本当に荷物をまとめて出ていこうとしたら、それ以来言わなくなったし。
思えば、その当時から私の心は母と決別していたのだろう。母は母という存在だというだけで、愛情を期待する相手ではなくなった。感謝しろって言われても、感謝する理由が見つからない。
生まれてきたことを後悔しているような人間に、生んでくれたんだから感謝しろって言ったって無駄だ。余計なことをしてくれたとしか思わない。母親だからといって無条件に感謝されたり、愛されたりするなんて思うのは頭の中がお花畑過ぎる。
もしも、産むだけで感謝されるなら、児相なんて必要ないだろう。すべての女性が子供を産むだけで母親になれるわけじゃない。母親になるには、愛情が必要なんだ。子供に手をあげて、自分の鬱憤を晴らすような人が母親だと大きな顔をしていいってことにはならないだろう。叩かれないために嘘を重ねて、困ったことがあっても1人で抱え込むようになって、そのまま大人になってしまった。
おそらく、私の見捨てられ不安症は、母に愛されなかったことが要因になっている。無条件の愛情を知らないから、何か言ったら叩かれると刷り込まれているから、この歳になっても夫に相談することもできず、紋々と過ごすことが多いのだ。まあ、夫も母と似たり寄ったりだが。
なんでも1人で解決する癖がついた。嘘を吐くか黙っているかの2択で生きている。本心を表に出したら、何か変わるのか?過去が変わるわけじゃない。妹だけが愛されて、私はどうでもいいようなことで叩かれる。
仕事と嫁姑問題で追いつめれていたのは分かる。でも、だからといって子供を叩いてもいいということにはならないし、虐待してもいいっていう免罪符にはならないのはわかりきったことだろう。母の中に私に対する愛情があったとはどうしても思えないし、母が私を庇ったり、怒り出さなったりした時には、裏があるんじゃないかと、むしろ警戒してしまった。
母の日に、何も言ってもらえなかったとか、プレゼントがなかったとか嘆くママたちは、1度、胸に手を当てて自分の言動をを考えてみて欲しいと思う。もしかしたら、必要以上に子供たちにガミガミ怒鳴ってはいないか。虐待していないか。自分の思い通りにしようとしていないか。もし、思い当たる節があるなら改めて欲しい。子供の頃に傷付いた心は大人になっても塞がらない。
無条件に感謝を求めないで欲しい。感謝されたかったら愛さなくちゃダメなんだ。家事が疎かになっても、食事が出来合いばかりでも、そこに愛があったら、多分、素敵な母の日が過ごせる。私は、母にありがとうとは言う気になれない。それは不幸なことだと思う。
母親がいないから不幸とかいうのも違うと思う。母親だけが、愛情を持っているわけじゃない。父親、それがだめなら親戚、それもダメなら施設の職員。その中の誰か1人でも愛を持って接してくれる人がいたら、決して不幸ではないのだ。感謝のカーネーションはその人にプレゼントすればいい。母親が愛情でできているとは限らないんだから。
感謝なんてできない。どうやって感謝しろって言うんだ。毎朝、電話するのでさえ苦痛なのに、これ以上を私に求めないで欲しい。
愛されて育った妹だけで十分だろう。母は私を捨てたんだし、八つ当たりの道具くらいにしか思っていなかったんだから。今更、娘が2人いて良かったと言われても、何、寝言を言っているんだくらいにしか思わない。憎しみが勝ってしまう。
赦せない私を赦して欲しいと思う。感謝できない私を赦して欲しい。母にじゃない。神様に赦されたいのだ。
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