結局のところ、行間を読めないとか空気が読めないとか、そんなことで誤解が生まれるんだろうと思う。その誤解を解くのに相手が頑なではどうにもならない。誰しもそんな経験をしたことはあるだろう。こちらが躍起になって誤解を解こうとすればするほど、相手は警戒して頑なになって上手く伝わらないのだ。
誰にでもあることで、私だけに起こることではないけれど、分かってもらえないのはやはり悲しい。不安だし、やりきれない思いでいっぱいになる。私は気にし過ぎる性質で、人がスルー出来る問題もスルーできなかったりするから尚更なのだ。もう少し、ポジティブになれればいいのだがそれができない。なれていれば苦労はない。
切り替えも悪い。ぐじぐじと過去を引き摺ってしまう。未来を見据えてなんてできない。暗澹たる未来しか想像できないし、強いて言えば、未来など来なくてもいいと思ってしまう。一瞬先は闇で、本当に未来など来ないかもしれないが、それならその方がいいのではないかと思ってしまう。この性格を理解しろっていう方が無理なのかもしれない。
ただ、後悔するのは嫌だ。後悔したまま死ぬのは嫌だ。だから、後悔のない人生を送りたいとは思う。もう、散々、後悔してきたが、まだ懲りずに後悔している。だけど、全面的に私が悪いのか?っていう疑問は残る。まあ、多分、悪いんだろう。だったらどうしろって言うのか。
どうしようもない。時間が解決してくれるとも思えない。この性格は時間が経てば変わるというものではないだろう。ネガティブに悩んで、報われずに悲しんで、どんどんこじらせてしまうだけだ。
何も心配する必要はないのかもしれない。私が心配症なだけで、世の中はもっと無頓着だったりする。でも、心配のあまり何も楽しめなくなることもあるのだ。生きているのが苦痛になる。誤解しあったまま、終わってしまったら後味が悪い。
分かり合えるなんていうことは決してないのかもしれない。自分と同一人物ではないわけで、自分のことすらちゃんと理解できていなかったりするのに、他の人の心まで理解しろっていう方が不自然だ。だから、頑なな心が溶けるまでは、そっとしておこうかとも思う。
私もかなり頑なだし、決して柔軟な心を持っているわけではないし、欠点だらけの人間だが、気が弱い分だけ人には優しいふりをすることはできる。大したプリテンダーだとは思う。それが正しいとは思わないが、そうすることで自分を守っている部分が少なからずあるのだ。
ムカッとしても、それを隠してしまう。でも、それが溜まると、どこかでぶちまけなければ、心が死ぬ。バランスが取れない。その場で吐き出せる性格、嫌なことは嫌といえる性格だったら良かったのにとも思う。かつては、もっと自分の心に正直だったような気もするが、最近は全くダメだ。性格が変わってしまったらしい。これも長年の自分の心を押し殺して生きてきたことの代償かもしれない。
自分に正直に生きること、これって本当に大切なことなんだなってしみじみ思う。無理をしてもいいことはない。私が我慢すれば済むなんて考えでは、いつか、もっと大きなトラブルを引き起こすんだろう。
もう、トラブルは御免だ。自分に正直になろう。結局、誰も私を本気で理解しようなんて思っていないし、私も思っていない。自分のことも他人のことも大嫌いだ。自分をどうしたら好きになれるのか教えて欲しいと思う。自分が愛せない人間が他人を愛せるはずがない。
子供たちのことは無条件に可愛いと思う。でも、それだけだ。それで十分かもしれないが、何かが足りない。塩が足りていないというかなんというか。
誰も私の真意を分かろうとはしない。ここは私の愚痴吐きの場であって、それ以外に何もないのだ。愚痴を吐く場所も失くしたら、心に抱え込んだストレスは何処に吐き出したらいいのか。不特定多数の人がこういう人生もあるんだって思うだけで、愚痴を聞き続けた時に食らうダメージはないはず。
愚痴って吐く方はすっきりするけれど、聞く方は辛い。そして愚痴を本気にされても困る。あくまでも愚痴であって、本心はそこになかったりするから。
私は自分が面倒くさい人だという自覚はある。解離性人格障害。いわゆるボーダーの人、見捨てられ不安症の人。これが治れば、もっと生き易くなるんだろう。でも、今のところ、治る見込みはない。カウンセリングでも受けて、自己肯定感を高めることができれば話は別だが、薬で抑えられるものでもないし、健常な人に理解してもらうなんて絶対に無理だ。
愛の反対語は無関心だと気が付いて欲しい。高望みかもしれないが。
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