メンタルが健康な人は、自分の存在を否定したりしないそうだ。もちろん、仕事でミスをしたり、大事な人と死に別れたり、失恋したりしたら一時的に死にたくなることもあるんだろう。でも、それは普通の反応で、病気とは言えない。数年間も何も手につかない程、落ち込んでいるとしたら、もう精神を病んでしまったとしか言いようがない。
健康なメンタルなら、消えたくなったり死にたくなったりしても短期間で終わるし、実行に移すこともないだろう。では、精神を病んでいる場合はどうだろう。これは人によって違うが、希死念慮というものがある。要は、死にたくて死にたくて、この世界に生きていることが苦痛で仕方ないという感情だ。
理由なんてない。何故か分からないけれど、生きていいてはいけないような気がするのだ。自分の罪の重さばかりを考えて、生きている値打ちがないと自分で自分を否定してしまう。もちろん、こんな症状が出ない精神疾患の人もいるのだが、私の場合は、子供の頃から希死念慮に苦しめられてきた。
もう、自分の手には負えなくなって、精神科を受診するようになって20年。やっと、合う薬に出会えて、希死念慮も姿を見せることは少なくなった。でも、完全に消えたわけではない。死にたいというよりも、自分の存在そのものを消してしまいたいという願望が出てくる。最初からいなかったことにして欲しいと思ってしまう。完全な自己否定だ。
死にたいんじゃなくて、消えてしまいたい。この世界から消えて、私を知っている人が1人もいなくなればいいと思ってしまう。
昔、ある人が、この世こそ地獄だと言っていた。悩み、不安、苦しみ、恐怖、こうしたネガティブな事柄から逃れることはできない。この世界こそが地獄で、生きているというのは罰なのだと。
もし、この世界が地獄なのだとしたら、死はその地獄からの救済だろう。地獄とまでは思っていないが、艱難ばかりがやってくる人生には辟易としている。それなのに、不老不死を願ったり、できる限り長生きしたいと思う人もいる。何故だろう。
誰もが長生きをしたいわけではないのに、日本人の平均寿命は年々延びているし、早死にすると思われていた人が、驚くほど長生きだったりする。無駄に丈夫にできている私は、多分、生きることを強いられるのだろう。
頭では分かっているのだ。消えるなんて不可能なことだって。誰の記憶にも残らないでいるなんて無理だということくらい理解できる。私は60年間生きてきて、たくさん生きていきた痕跡を残してしまっているから、記憶から消せるわけがない。完全に記憶から消えるためには、あと100年くらいは必要かもしれない。いや、それ以上か。
人間は死んだら、その人を知っている人の記憶の中で生きるともいう。記憶の中で生き続けるというのだ。忘れられる権利というものは、どうやら人間には発動しないらしい。でも、私は忘れられる存在でありたいのだ。誰にも思い出して欲しくないのだ。
消えたいと願うことは、贅沢なのだろうか。自分がいなくなった方が、世の中上手くいくんじゃないかと思ってしまう。もちろん、それは驕り以外の何物でもない。自分がそんな大そうな人間ではないことくらい自覚している。何も生産的なことはしていないし、社会の歯車にさえなっていない。消えたところで、世の中が変わるはずもない。
それが分かっていて尚、消えてしまいたいと思うのだ。オランダの人生に疲れたら安楽死という法案はどうなったんだろうか。もし、その法案が通っていて、誰もが簡単に安楽死を選べるようになったとしたら、安楽死は自殺と変わらないような気がする。それはそれで問題があるんじゃないかと思うが、魅力的でもある。
ただ、私は死にたいのではなく消えたいのだ。存在そのものを消してしまいたいのだ。誰の記憶にも残らず、何の痕跡もなく。
この世は地獄だと言っていた人の気持ちが分かる気がする。生きていても、困難にしかぶつからない。多分、その人は、私以上に辛い人生を送ってきたのだろう。上を見たらキリがないが下を見てもキリがない。自分が人間のどん底にいるような気分ではあるが、おそらく、私以上に苦しんでいる人たちはいるのだ。
私の消えたい願望は、心の病がなせる業で、寛解すればなくなるのだろう。自分を肯定できるというのはどういう気分のものなのか。否定ばかりしてきたので、想像もつかない。世の中が薔薇色に見えるのだろうか。心の底から笑えるのだろうか。
ここまで、良くなったところで足踏み状態だ。一応、日常生活は送れるようになったし、外出もできるようにはなった。人と関わるのは嫌だけれど、それでも大きく前進していると言えるだろう。この消えたい願望がなくなれば、もっと楽に暮らせるようにはなるはずだ。ちゃんと呼吸ができるようになる。この世界に生まれてきてしまった以上、消えるなんて不可能なのだ。
だから、ちゃんと寛解する時を待つのだ。
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