私は波乱万丈な人生を送っていきたけれど、決して不幸ではなかったと思っている。いろいろあった。周囲から見たら幸せには見えないだろうとも思う。虐待されて育ち、結婚した相手は女癖が悪い酒飲みで絡むし、瞬間湯沸かし器で後先考えずに怒鳴り散らす。借金だらけで、自分の信用だけでなく私の信用まで失墜させた。
恨み言なら書ききれないくらいあるのだが、それでも私は不幸ではないと思っている。真に不幸なのは神様を知らないことだと思う。主を知らないことこそ不幸なのだ。幸いにして、私を主が選んでくださった。だから、この先も、どんな艱難が待ち受けていたとしても主が何とかしてくださるから大丈夫だという自信がある。
私の人生を不幸だと言って欲しくない。虐待はともかく、自分で選んだ人生だ。もしかしたら選ばされた人生かもしれない。すべては必然であり、偶然はあり得ないと思っているから。最初からこうなるように主が道を用意されていたのだろう。
全てのことに感謝し、讃美できる人生のどこが不幸なのだろう。不満を言い、感謝することもできず、主の呼びかけに答えない人生の方が不幸だと思う。有り余る財産があっても、主を知らなければ不幸だ。主はその財産を、もっともっと増やしてくださるし、心の平安を与えてくださる。
私だって、腹が立つ思いはたくさんある。特に夫のことだけど。離婚したいとかATMだとしか思えないといっても、心から憎んでいるわけではないらしい。この辺りになると、自分の感情に自信が持てない。これが情なのか愛なのか、自分自身で理解することが難しいと感じる。
辛いことは山ほどあった。先が見えない不安もあった。でも、今はこうして平穏に暮らしている。夫がいなくなれば、また状況も変わってしまうんだろうと思うし、そこに不安がないと言ったら嘘になるけれど、主がきっと導いてくださる。
子供たちは言う。なんでもかんでも主に任せるのは良くないと。主が何とかしてくれるでしょって構えていると、そんな風に忠告される。でも、実際、何とかならなったことはないわけで、全てが神の御業としか言いようがないのだ。
試練を与えることはあっても、見捨てられることはない。だから、何があっても大丈夫なのだ。試練と同時に逃れの道も用意していてくださるという言葉を信じれば、どんな試練の時にあっても、その道を探し出すことができる。絶望する必要はないのだ。
最後は死という救いを与えてくださる。死は決して不幸なことではなく、むしろ望ましいことなのだと思う。すべてのしがらみから解き放たれ、やっと安らかに眠ることができるのだ。そこに、真の平安がある。もう、何にも脅かされることもなく、不安を感じることもなく、寒さも暑さも感じることがなく、ただただ、平安のみが己を包む。こんなパラダイスがあるだろうか。
信仰を持つものにとって死は、天国への凱旋なのだ。まあ、苦しんで死ぬのは嫌だけど。できるならサクッと死にたいと思うけど。
不幸ではない。こう言い切れる自分がいる。私はそれが嬉しい。苦難の道だったけど、そして、この先に待っているものが、やはり苦難の道かもしれないけれど、私はそれを不幸とは思わない。今までも、自分が不幸だと思ったことはない。
もちろん、何故?って言いたくなることは多くあった。やりきれない思いを抱える日々もあった。でも、主はそれ以上の恵みを与えてくださっているから、決して不幸ではないのだ。だいたい、不幸ってどういうことなのか。主を知らないことだけが不幸なのだから、私は幸福であると言える。
主に立ち返るまでの40年間は、もしかしたら不幸だったのかもしれない。でも、私が洗礼を受ける前から主は私を助けてくれていたとしか思えない。私が主を知るよりも早く、主は私を選び、助け、導いてくださったとしか思えないのだ。もし、そうでなかったら、多分、私も子供たちも存在していない。それだけの試練があったのだ。
私は祈った。主を知らなかった時に、ひたすら祈った。神様の存在は信じていたから、神様に祈った。そして、祈りは聞き届けられたのだ。どん底から這い上がることができたのは神様の力だ。私たちの努力の結果ではない。
もしかしたら、すがるように教会に通っていた中学生の頃から、主は私の中にいたのかもしれない。その時から、主が付いていてくださったのだとしたら、全て納得できる。どんなに虐待されても、生き残ることができたわけだし、にわかには信じられないような出来事を乗り越えることができたのも、全て主のおかげだったのかもしれない。
主に、ここまで愛されているのだから、不幸であるはずがないのだ。
スポンサードリンク