私がやって当たり前と思われている節がある。私がやって当たり前だから何もしない。でも、朝の薬も飲む暇がなくてバタバタしているのに、何ひとつ手伝おうともせず、あれやって、これやってっていい加減にして欲しい。私はもうくたくただ。
頼む方は楽でいいかもしれない。私に任せてしまえば、自分では何もやらなくていいんだから。でも、一緒に暮らしているのだから、少しは状況を見極めて、私がいっぱいいっぱいになっていることくらい把握してくれてもいいじゃないかと思うのだ。そして、そんな時に、私はみんな嫌いだって思う。
なんでもかんでも人任せ。私は1人しかいないし、みんなのお世話をするために存在しているわけではないと思う。少なくとも、愛されるために生まれたっていう聖歌とは相反する。私は愛されているという実感がない。いいようにこき使われているだけだろう。
もしも、愛されているのなら、少しは私のやらなくちゃいけないことを減らす努力をして欲しい。なんでも私に言ってやらせるんじゃなくて、自分でも動いてもらいたいと思うのだ。簡単なことでいい。自分で飲んだ缶ジュースの空き缶をシンクまで運ぶとか、本当にそんなことでもいいのだ。私が何往復もして運ばなくちゃいけないなんて、誰が決めたんだ。私はメイドではないはずだ。
いつも不機嫌な夫とか、マジで邪魔にしかならない。自分では仕事以外何もしないから、正直、留守にしていてくれた方が助かる。いたら用事ばかり言いつけられて、座っている暇もない。自分でできることもやらせるし、これで仕事を引退したりしたら夫のいる意味ってどこにあるのだろう。
本当に、みんな何もしない。辛うじて娘が晩御飯を作ってくれたりするけれど、それも自主的にではないし、私の苦手料理の時だけの話だ。あとは体調を崩した時か。結局、夫の面倒は私が見なくちゃいけないし、でも、夫の面倒なんて、夫自身みれると思うのだが。
みんな嫌いだ。こう感じる時は、大抵の場合、私は疲れている。朝からバタバタしていて、水分を摂る暇もないとか、そんな時だ。誰も私に代わってやってくれる人はいないから、結局、1人であたふたしている。
何で、私がやって当たり前だと思われているんだろう。みんな、面倒くさいことから逃げているだけじゃないのか。面倒くさいことは自分ではやらずに、私に押し付けてすべてお終いってことにしているんじゃないのか。仕事をしていたら、それだけでいいのか。それとも専業主婦は疲れないし、暇だとでも思っているのか。
暇なわけないじゃん。土日祝日関係なく主婦の仕事はあるわけで、それに加えて夫の面倒まで見なくちゃならない。頼めば手伝ってくれるかもしれないけど、嫌な顔されるのを見るのが嫌だ。多分、こうして家庭って壊れていくんだろうと思う。共同体というか最小単位の社会だ。その社会で起きたことを1人に押し付けて知らん顔とかありえないだろう。
でも、それがまかり通ってしまうのだ。本当に損な役回りだと思う。
もう、夫の面倒をみるのも、愚痴を聞くのも嫌だ。愚痴を聞くことは脳にダメージを受ける。言う方はすっきりするかもしれないが、聞かされる方は脳にダメージまで喰らって、いいことなんて何もない。みんな嫌いだ。私は自分のペースで動きたい。そこを邪魔されると、ストレスになる。
自分たちは寝ている時間から、1人起きて家事を始める。それも当たり前だと思っている。起こしても起きないのもストレスだ。時間になったら起こしてくれって言うくせに、結局、起きないとか日常帝にあるのだ。起きられないというのなら、最初から起こしてなんて言わなくていい。時間厳守するために、何度も時計を確認し、自分のやっていることを中断しなければならない。私の時間ならいくら盗っても大丈夫だとでも思っているのか。
私は家事も苦手だ。苦手だけど、やらなくちゃいけないからやっているに過ぎない。嫌いなことをしているのだから、せめて労いの言葉くらい欲しい。でも、当たり前のことだと思っているから、労うという発想は出てこない。
頑張って生きているけれど、私がいなくなったらどうするつもりなのか。面倒なことを押し付ける相手がいなくなって生活できるのか。私に判断能力がないことを忘れていないか?私が精神疾患を患っていることを忘れていないか?そんな人間に、判断しろとか無理難題を押し付けてくる。一見、健常に見えるから、忘れてしまうのかもしれないが、日常生活を送るのが精一杯で、それ以上のイレギュラーな対応を私に求められても困る。
だから、もう、みんな嫌いになってしまうんだ。
スポンサードリンク