余命宣告によれば、夫の余命は後2年くらい。もしIPS細胞での治療が可能になれば、心臓移植しなくても完治するだろうし、節制した生活を送ればもっと長く生きられるかもしれない。でも、夫の不摂生は直らないし、こっちが気を遣って夫の食事だけ塩分控えめにしたりすることを嫌がる。手間をかけさせることが嫌なんだそうだ。
私からしてみたら、減塩料理を食べてくれる方が安心で、普通食なんて食べさせられない。塩分を気にしてか夫は半人前分の食事しか摂らないから、どんどん痩せていく一方で、量で加減するから大丈夫っていうのは、いろんな意味で危険過ぎる。
今や、夫の足の細差は私よりも細いし、その細い足で体を支えるから重心が悪い。膝が悪くて外を歩く時には杖を使うけど、何かの拍子によく転ぶ。家の中では掴まるところがたくさんあるからと、杖をつくことはないが、バランスを崩しては転び、階段からは落ちる。やはり、人間ある程度の体重は必要だ。
夫の体型は、どう見ても進撃の巨人に出てくる、体は大きいけれど手足は細いという巨人にしか見えない。その足では体重を支えられないだろうって言われていた巨人の体型だ。弾性ストッキングのサイズがLサイスでも緩くなっている。太れって言いたいけれど糖尿もあるし、運動ができるわけではないので、足に筋肉をつけることもできない。
足がそんな状態なので、正直、座っていてもらった方が安心できる。立って何かしたり、歩いたりすると転びそうで怖いのだ。心配してしまうのは何故なのか。怪我でもされたら手間が増えるからなのか。それとも、愛があるからなのか。
フキハラ、すぐにキレる、DV、怒鳴る、と、愛を感じることは全くといっていいほど何もないはずで、夫が不機嫌になって、いちゃもんつけられると私は心の中で、さっさと死ねよとか思ってしまうんだけど、それでも心配してしまうのは何故なのか。散々、苦労をかけられてきて、それでなくても愛想も尽きているのに、死なれたら嫌だとか思うのは、何か違う気もするのだ。
それとも、愛とはそんなに単純なものではなくて、人間の思考を超えているのかもしれない。少なくとも、在宅中には子育てにも協力的ではあったし(寝る時間になっても、まあいいじゃんってベッドに入れなかったこととかは協力的とはいえないが)、率先して子供たちをお風呂に入れたり、私が育児でヒステリーを起こしても、子供がひっくり返した食事の始末をしてくれたりはしたし、食事の支度をしてくれたこともあった。
モラハラというよりフキハラで、不機嫌になる地雷は毎日変わるし、私は気を遣ってヘトヘトになってしまっている。ほんと、いなくなってくれた方がどれだけ楽かと思ってしまう。それでも、本当にいなくなったら、私は悲しむんだろうか。
愛とは本当に不思議なものなのだ。Queenの曲の中に、Funny How Love is というものがあるが、本当にそうだ。この曲の歌詞の通り、愛とは不思議でおかしなものだとしか言いようがない。その証拠に、私は離婚せず、今、ここにいる。
死んで欲しくないって思ったんだ。エリザベス女王の国葬を見て泣くような優しさ、感受性を持った人なのだ。小さな子供が事件に巻き込まれたりしたら、そのニュースを見てやっぱり泣いてしまうような人なのだ。根っからの悪人とは思えない。
三男坊が言っていたけれど、仕事以外は相当のコミュ障なのだろう。彼は家を離れてから、夫のことも冷静にみられるようになったらしい。誰のことも恨んでいないと言っていた。彼が逃げ出したには正解だったかもしれない。ただ、北海道は遠すぎる。この先、仕事面で帰ってこなければならないシーンはいくつか出てくるだろう。その度に北海道から帰ってくるのでは交通費がかかってどうしようもないだろう。
私も、夫に期待しなくなって何年にもなるけれど、やっと冷静に夫を見ることができるようになった気がする。でも、夫がいなくなったら、あれをしよう、とか、これをしようとか思ってしまうのも事実だ。心のどこかで、生きていて欲しい気持ちと、死んで欲しい気持ちが混在している。
仮に、長生きされたとしても、母のように認知症になられても困るし、毎日、不機嫌な顔を見るのもうんざりする。金遣いも荒いし、質素に暮らすということができない人だ。だけど、残されたら、きっと私は泣いてしまう。これが愛なのか?愛って何なんだ?無条件の愛情を知らない私には、理解することが難しい。愛とは本当に不思議なもので、もう、うんざりしているはずなのに、何を心配しているんだろう。
夫がいなくなった後の生活か?本当にそれだけか?
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