人の力には限界がある。でも、主の力に限界はない。悩みは深く、尽きることはなくても主が今までも、きっと、これからも、全てを益へと変えてくださるのだ。だから、祈り、讃美し感謝し、主の教えから外れないように生きる。教会へも通わないような不敬虔なクリスチャンかもしれないけど、主の恵みは降り注いでいる。
今、悩み事の渦中にいる。不安の渦中にいる。でも、きっと主が何とかしてくださると信じる。私たちが望む結果を得られなかったとしても、逃れの道は用意されているだろう。最終的には、望んだものを得ることができているんだろう。それは、主が最適と思われた形で贈られるから。だから、聖書に書かれているように、主を信頼せよって言葉に帰結していくんだ。
全てを主に委ねて、重荷を下ろし、安らかでいたいと思う。でも、肉である私にはそれができない。何とか自分の手でしようとしてしまう。分かっている。自分でも動かなければダメなことくらい。ただ、それが主のみ旨とは違う方向で動いてしまうことが問題なのだ。そこが難しい。天は自ら助くる者を助くって言葉があるくらいだ。主に祈ったから何もしなくていいってことにはならない。
常に祈り、主の道を尋ね、主の御心をきく。これが大事だし、祈っていると、ああ、そうなんだって急に分からなかったことが分かる瞬間がある。気付くのが遅かったとしても、気付けないよりはずっといい。
ずっと、そんなことの繰り返しで、いつも主に助けられてきた。教会を離れて放蕩していた期間が長かったのに、いつも主は私を見守り助け、恵みを与えてくれていたんだなあって心の底から思うのだ。今も礼拝にも参列しない不敬虔さMAXの私を助けてくれる情け深い神様。私はあなたをより頼みます。
別に、宗教勧誘するつもりは、これっぽっちもないから、安心して欲しい。このブログにたどり着いたとしても、私は勧誘するつもりは一切ない。選民思想と言われるかもしれないけど、主はご自分の民を選ばれる。すべての人を救うことが目的であっても、主に選ばれなければならないのだ。
教会に通いたいと言ったのは、中学1年生の頃。その当時から、少々、病んでいた私はすがりつくものが欲しかった。いろいろ回った。カトリック、聖公会、プロテスタント。シスターに定期的にお会いして、神様のお話を勉強していたこともある。
でも、マリア礼賛についていかれなかった。キリスト教会のはずなのに、何故かマリアばかりを称える。不思議で仕方なかった。祈る相手はマリアではなくイエス様か神様でしょ?って思いがあって、足が遠のいた。サレジオ教会、芸能人がよく結婚式を挙げたと報道される教会だったと思う。
聖公会も似たようなもので、教義がよく理解できなかった。カトリックほどのマリア礼賛があったわけではないけれど、やはり聖母マリアということで、それなりに崇拝されていたと思う。聖公会にいた時期が1番短かったような覚えがある。そしてたどり着いたのだ、プロテスタントの教会だ。
カトリックや聖公会のような荘厳な感じは全くない。会議室のようだと表現したらいいだろうか。そこでも、私の抱えていた問題は解決には導かれなかったし、次第に足が遠のいて、自分が神様に選ばれているなんて思ってもみなかった。でも、主は間違いなく私を選び、私を守り、導いていたのだ。そうでなければ、それから30年近く経ってから、再度、教会に足を運ばせるようなことはされなかっただろう。
再度、自分ではどうにもできない事件が起きて、私は教会に足を踏み入れ、洗礼を受けることになる。子供の頃分からなかったことが、その年齢になってやっと理解できたということだ。神様、帰ってきましたという思いから、ボロボロ泣いた。
多分、今、また教会に通えるようになったら、同じように泣くんだろうと思う。懺悔と感謝で。
クリスチャンらしいこと、今の私は大してしていない。しているのは、御言葉をシェアしてTwitterに投稿することと、聖書の通読くらい。それも一章ずつしか読まないから時間がかかる。聖書の中に、私の悩みを解決してくれる糸口がないかと探している。
メッセージを聴くこともある。YouTubeで。でも、こちらも真剣には聞いていない。クロスステッチをしながら、メッセージを聴いているくらいだから、何もしていないのと変わらないかもしれない。でも、何もしないでいるよりは、はるかにマシだろう。
そして、主に委ねる。主に任せる。これが、なかなか難しい。主に任せて、自分が遊び呆けていたら、それはただの馬鹿だ。主に任せて、主のみ旨を行うことが大事なのだ。でも、自分の手が届かないこともある。肉としての限界だ。自分ではどうしようもないことも、主は必ず、何とかしてくれるのだ。
どんな時も決して見捨てず、見放さず、私たちを守ってくださる主。信仰を持てて良かったと思う。あの時、教会に帰ることを選択できて良かったと思う。そして、頼った相手がカルトじゃなくて良かったと感謝する。当時の私だたら、カルト教団に騙されたとしても、全くおかしくはないくらい追い詰めれれていたからね。
主に任せよ。どんなことも。決して主は見放したりしない。主よ、どうか私の祈りに応えてください。
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