心の病には、同じ病名が付いたとしても症状は人それぞれで共通項なんてないといってもいいほどだという。精神科のドクターだって、その症状を見分けるのは難しいらしいし、詐病でも精神疾患と診断を下してしまうことは多々あるのだろう。今はネットで簡単に、うつ病チェックとか、統失チェックとかできるから、精神科での問診も事前に仕入れた情報を書き込めば精神疾患と診断される可能性は高いと思う。
だから、ドクターは喋り方とか、態度から病気の有無を判断したりするわけで、問診はあくまでも参考程度くらいになっているケースもあるんじゃないかと思う。問診表に書かれたことのすべてを信じてしまったら、正確な判断は下せないのだろう。まあ、心の病といっても、たくさんあるし、みんな何らかの病を持っているのかもしれない。
メンタルが強いと言われている人だって、ある日、ぽっきりと折れてしまうことだってある。私たちをメンヘラと言って馬鹿にしてきた人が、突然、患者の立場になる。ようこそ、こちらの世界へってところだ。
お手本に書いてあるような綺麗な症状が現れるケースもあるんだろうけど、私は不眠ではなく、過眠になり拒食ではなく過食になった。ガリガリに痩せていくどころかぷくぷく太くなって、それだけ見ていたら、誰も精神疾患だなんて思わないだろう。
私の腕にも足にも、無数の切り傷が残っている。今は切りたいという欲望はなくなったけれど、ついこの間までは、当たり前のように切り刻んでいた。死にたくなったら切る。血を見ると、少しだけ安心する。理由は知らない。
私とは反対に、血を見るのが怖いという人もいる。でも、同じ病名が付いている。精神疾患の世界なんて、案外、いい加減なものなのかもしれない。本当は私は病気ではなく、病気のふりをしているだけなんじゃないかと思うこともある。本当は最初から健康で、ただ、現実から逃げ出したかっただけなんじゃないのかって。
寛解が遅くなると、患者は1度はそう思うらしい。ドクターが以前そう言っていた。患者さんなら誰もが、1度は自分は本当は健康なんじゃないかと疑うって。特になかなか寛解しないと、そう思い始めるって。
なんとなくだけど、納得する。この世界は生きるのには辛過ぎる。だから、宗教にハマったりする人も出てくるんだろう。自分ではどうにもならない問題を解決しようとして、カルトにハマる。口先だけの甘い言葉にも騙される。私だって洗礼を受ける前は、縋れそうなものには何でも縋った。そうでもしないと、生きていかれないところまで追い詰められていた。
心の病に陥ったとしても何ら不思議はない。クリニックに行って、診断が下されて、ほっとする。この辛さは病気がもたらすものだと思えるようになったから。希死念慮も何もしたくない憂鬱感も全部、病気のせいにできるから。
合う薬が見つからなくて、長い年月をメンタルクリニックに通うことになったし、多分、この先も通うんだろうとは思うけど、私は本当に病気なのか?っていう疑問は頭の片隅にある。もしかしたら、病気のふりをしているだけなんじゃないのかって。
自分の症状は、他の同じ病名の患者さんとはあまりにも異なっているから、詐病かもしれないと思ってしまう。憂鬱感だけは共通しているけれど、それ以外はほぼ共通するものがなくて。ネットのチェックには当てはまる項目が多いけど、それは知識として知っているから、病気と判断される箇所を選んでチェックを入れているだけなんじゃないかと思ってしまう。
現に、ブログを書くことはできたし、ブログライターとしてお金をもらっていた時期もあるし、クロスステッチもできた。ただ、できなくなったこともある。読書ができなくなった。文字が横滑りして、意味が頭の中に入ってこない。テレビの音が騒音で、集中して観ることができない。家事も疎かになる。
仕事にも行っていた。働かないと生活できなかったから。でも、心がしんどくなり過ぎて、退職してからが酷かった。本当に何もできない。それでも、甘えなのではないのかって疑う気持ちはいつもあって、ドクターに問いかけるのだ。もしかして、私の症状は詐病ではないのかって。
ドクターは、決して詐病ではないとは言わなかったけど、薬が増えた。
今は、合う薬も見つかって、日常生活もそれほど困らない。電話や対人が怖いだけで、何とかなっている。あれだけ切り刻んだ剃刀もない。でも、まだ卒業はできない。減薬にも失敗した。まあ、徐々に薬を減らすことを考える時期には来ているらしいけど、無理に減薬、断薬をするのはご法度だという。
私も、酷くはなりたくないし、処方された通りに服薬している。オーバードーズもしてない。多分、これは良い兆候なのだろう。気が重いと感じるのは、多分、気圧のせいなんだろう。悪化とかないと思いたい。気が重いなんて気のせいだ。この憂鬱感は気のせいだ。薬、足しておこう。
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