歳を取ること自体が怖いわけじゃない。不老不死なんて1番の不幸だと思う。私が怖いのは、歳を取って、自分の身の回りのことが出来なくなったり、認知症になって何も分からなくなってしまうこと。長生きすればいいっていうものじゃない。子供たちに迷惑をかけて、早く死んでくれないかなって思われることが怖いのだ。
子供たちのお荷物になりたくないから、介護施設に入りたいと思っても、介護施設の価格は目が飛び出すほど高い。入居時に支払う金額が10,000,000円を超えるところなんてざらにある。そして、月々数十万円の賃料がかかってそこから更に介護保険料やらなんやらかかることを考えたら、介護施設に入るとはとてもじゃないけど言えない。認知症の診断が下されなければ、グループホームには入れないし、それでも、私がもらえるであろう年金よりも賃料の方が高いのだ。
この国は、子育てにもお金がかかって、介護にもお金がかかって庶民派あっぷあっぷしているのに、全く顧みることがない。一部の富裕層だけを見ているんじゃないかと思うことがしばしばある。月々、年金6万円で、どうやって生活しろっていうのか。生活保護があるって言っても、簡単には受給させてくれないじゃん。
昔は、年金で悠々自適に暮らせたかもしれないが、今は無理だ。夫のもらう年金額を見ていると、私はそれよりも引く額しかもらえないってことが悲しくなる。国民年金に減免があるって知らなかったから、払っていなかった時期があるのだ。仕方ないと諦めてはいるが、生きていることに絶望してしまう。
人生も後半に入って、ここでもまた苦労がある。ほんと、昔は55歳定年で60歳を超えたら長生きと言われていたこともあった。70代まで生きたら大往生だったのに、どんどん平均寿命は延びていく。医療の進歩で、無理矢理、生かされている人もいる。
私は、無理矢理、生かされるのは嫌だ。自然に任せて欲しいと思う。大きな病気が見つかっても、治療してとか考えてはいない。今はまだ元気だけれど、いずれ、歩くこともおぼつかなくなって、物え忘れも激しくなるんだろう。病気の治療をして、長く生きたところで子供たちに迷惑をかけるだけだ。それなら、緩和ケアだけしてもらって、お迎えを待つ方がずっといい。
母が認知症で、歩行困難になっているから尚更、思うのかもしれない。母のようにはなりたくないって。電話をかけても電話に出ることすらできない。子供のことも忘れてしまう。自分が1番大切にしている子供たちのことも忘れてしまうくらいなら、絶対に長生きはしたくないのだ。
元気なうちはいいかもしれないが、体のあちらこちらに不調は現れてくるんだろう。今は、まだ、元気だと言っていいかもしれないが、それだって、いつまで続くか分からない。老いは確実に私の体を蝕んでいくのだ。
死ぬのは怖くない。安楽死も賛成派だ。いくつになったから、安楽死とか決められたら抵抗するかもしれないが、自分が生きていると感じられなくなる前に、逝きたいとは思う。歩けなくなる前に逝きたいと思う。足腰が弱ってバリアフリーじゃないと生活できないとか、絶対に迷惑だろう。
自分のことは自分でできるうちはいい。普段は私も年齢のことなど忘れているし、まだまだ、若いつもりになっていたりする。でも、もう、新しいシステムにはついていかれないし、細かい文字は読めないし(眼鏡を外したら読めるけど)、周囲に注意を払えなくなった。それだけ、老いてしまったということだろう。
自分は、まだまだ大丈夫とか慢心するのは怖い。赤ちゃんが1日1日成長していくように、1日1日と老いていく。しかも、赤ちゃんは成長して自分でできることが増えていくのに、老いはできることが減っていくのだ。介護している側の悲しさはここにある。
介護が必要なくらいになるまで、生きていたいとは思わないけど、お迎えが来てくれなかったら、自分ではどうしようもない。母のようにはなりたくない。自分で満足に足を動かすこともできず、認知症でこの世界のことを忘れていく。そんな風にはなりたくないのだ。
自分が確実に認知症になるとは限らないけれど、何もかも分からなくなるのは嫌だ。まあ、若年性認知症というものもあるにはあるが、大抵の場合、高齢にならないと認知症にはならないだろう。もう、長生きし過ぎて、脳がバグを起こすなんて歓迎する人はいないと思う。長生きしたい人は、老いが体の自由を奪っても、自分の頭で考えることが出来なくなっても、生きていたいと思うのだろうか。
子供たちの迷惑になる前に、逝きたいというのが目下の願い。悩み事、不安、いろいろあるネガティブなことから逃げ出したいっていうのもある。もう、十分生きたから、この世から私を解放して欲しいと願う。老いに蝕まれて、人間としての尊厳を失くす前に、綺麗に逝きたい。
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