仏教の中には南無阿弥陀仏と唱えると、どんな悪人でも救われる、極楽浄土に行かれるという教えがあるらしい。仏教にもいろいろあるから、その中の宗派の一つの教えなんだろうけど、全く有難い教えだと思うのだ。だからといって棄教して仏教徒になるつもりはこれっぽっちもないが、自分が罪塗れの人間だと自覚してしまうと、そんな教えがちょっと羨ましくなる。
クリスチャンだって祈れば赦されるんだろうって思われているかもしれないが、多分、決して、そんなことはないのだ。聖書を読んだことのある人なら分かるかもしれないが、神様は何度も人類を、人類どころかすべての生命を根絶やしにしようとするし、信仰を試みるために不幸を与え続けたりするのだ。
そんな宗教を何で信仰しているのかは分からない。信じずにはいられなかったのだ。そして、受洗20年を超え、自分の罪の重さに震えているわけだ。主イエスの血によって、全ての罪が赦されたと言われているけれど、自分の罪を天秤にかけた時、誰かが私を恨んで、呪ったりした時に、主がその願いを聞き届けられたとしたら、私は自分の罪故に、地獄へ落とされるだろうし、この世では不幸の連続の中で打ちひしがれることになるのではないか。
南無阿弥陀仏などという魔法の呪文はないのだ。私の罪は赦されたと受洗した時に言われたような気もするけれど、その辺りははっきりとした記憶がない。ただ、自分が天国に行かれるようになったという喜びしかなかった。
でも、きっと、それは幻想に過ぎなかったんだろう。自分の罪をすべて解消することなんてできなかった。受洗したからといって、全て、自分の間違った行いが肯定されるわけがない。いつかは巡り巡って、自分の元へと返ってくる。
もちろん、私の犯した罪は、正確に言えば犯罪ではない。もう時効も成立している。それでも、罪は罪なのだ。私が犯したのだ。その事実を消すことはできない。当然、被害者がいるわけで、その被害者が同じクリスチャンで、私を恨み、呪ったとしたら、主はその願いを聞き届けられるかもしれない。いや、聞き届けられたから、こうして不安な日々を過ごすことになったのだろう。
私にできることは何もない。祈ることだけだ。でも、だからって赦されることもないだろう。私はそれだけ酷いことをしたのだから、赦されなくても文句を言える立場ではない。
その場を逃げるのが精一杯で、彼女が被る迷惑とか困難と考える余地はなかった。連絡があっても、無視を続けた。今も正面から向き合う勇気がない。どれだけ罵倒されようとも、それを受け止めなければならない。一言、謝罪したくて探してみたこともあるけれど、見つからなかった。
探偵を雇って探すことも考えたけど、お金はないし、彼女の写真も今の名字も分からない。分かっているのは出身校の名前とファーストネームだけだ。それに、依頼して、たとえ見つかったとしても、謝罪だけでは赦されるとも思えない。
クリスチャンは怒ってはいけないって幼い頃、叔母に言われた。でも、私はクリスチャンになったけど、大いに怒るし、恨みごとも言うし、全然、クリスチャンらしくない。罪を犯してはいけないと分かっていながら、罪も犯す。
赦しを乞うて祈ることもないくらいの不敬虔なクリスチャンだ。そう考えると、南無阿弥陀仏で済む仏教はお手軽でいいと思う。どんな罪人であろうと、その一言で救われるのだ。何も畏れる必要はないだろう。
私は、この先、どうしたらいいのだろう。彼女の願いが聞き入れられたのだとしたら、恨む相手は私だけで十分だろう。子供たちにまで巻き込むことはやめてくれっ懇願したい気分だ。でも、一族郎党すべてを恨んでいたら、その願いを主が聞いていたら、諦めるしかないのか。本当に私は救いようにない悪人なのだ。
信仰心がないわけじゃない。だから、私が主に懇願したら最悪の事態は免れるかもしれない。でも、それでは彼女に申し訳が立たない。彼女の赦しが必要なのだ。主がたとえ私を赦してくださったとしても、彼女が赦してくれなければ意味がない。
南無阿弥陀仏だって、あまりにも自分本位だろう。どんな悪人であろうとも、その言葉だけで救われるなんて、被害を被った人たちからしてみれば、許せることじゃないと思うのだ。いや、そもそも悪人は、そんな救いを必要とはしていないものかもしれない。自分の力のみを信じ、神仏など信じていないとすれば、南無阿弥陀仏とも唱えることはないのではないか。
そうならば私は、まだ、マシな人間なのかもしれないと思わないでもない。ただ、だからといって主が助けてくれるかどうかは別問題だ。彼女が赦してくれる魔法を私は知らないのだから。
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