神様は、時々、自分たちの健康が当たり前のものではないことを思い出させるために、病気を与えたり、怪我を与えたりするというけれど、これはちょっとやり過ぎだよ、神様って言いたくなる。
昨夜、夫が階段の真上から転落して背中とお尻、手足に怪我をした。頭を打たなかったから良かったけど、熱まで出してしまった。その上、娘まで松葉杖になるかもしれないという怪我をした。まったく、何をやっているんだか。
こういうことは全部、私が引き受けるから、私の家族には健康でいてもらいたい。夫は既に健康体とはいえないのだし、新たに怪我をさせる必要なんてないんじゃないのか。怪我の痛みで不機嫌だし、熱も下がらないし、夫や子供たちに健康の有難みを教えるのなら、私に与えてくださってもいいんじゃないかと思うんだ。
私が痛がったり、苦しがったりしているのを見たら、健康って大事なんだって思うだろう。当たり前のことじゃないんだって自覚するだろう。もう、見ている方が辛くなるから、家族に起きる健康上に災いは私が一手に引き受けたい気分だ。それに、夫や子供たちは、健康を損ねると仕事にも影響が出るし、そうなったら、困るから、1番、病気になっても困らない私が引き受けた方がいいに決まっている。
無駄に丈夫にできているから、滅多なことでは熱も出さんし、1番、健康の有難みなんて分かっていないのが、多分、私だ。それなら、怪我は私に与えられるべきもので、夫や娘に与えられるものではないだろう。彼らはそれでなくてもいろんな不具合を抱えているのだから。
ほんとに、彼らの怪我は私に与えられてもいいと思う。それとも、彼らは傲慢になっていたのか。それはないと思う。いろいろ我慢して一見、健康に見えるだけで、実際はアレルギーや病気との戦いの日々を送っているんだから。
神様が間違いを犯すわけはないから、この怪我は彼らのためだったのかもしれないが、見ていて痛々しくて、マジで休ませてあげたいと思う。おまけに、夫は痛くて動けないけど仕事が詰んでいるから休むこともできないし、娘も仕事もイベントもあって、怪我なんてしている場合じゃないのに。何か神様にはご計画があって、このことが起きているのは分かるけど、やっぱり可哀想で見ていられない。
まあ、可哀想だとは思うけど、自分を最優先してしまうんだけどね。傲慢になっているのは私であって、絶対、彼らではないだろう。まったく神様のご計画は人智を超えているから、人間ごときに理解できるわけもない。何故、こうも不運が続くのかも分からない。
神様の恵みの元へ来いっていうことなのか。でも、彼らが、怪我程度で主の御恵みに招かれてるなんて思わないだろうし、かえって恨みを買いそうな気がする。それはそれで、神様もご存じなんだろうけど、ほんと、主のご計画は理解できない。信仰がなかったら、ただに不運で済ませていたかもしれないけど、不運で片付けられるようなことではないと思う。
大きな怪我をして、それでも骨折とかそういうこともなかったから、軽症になるのかもしれないけど、その怪我を益へと変えてくださる神様を信じられるのは喜びでもある。おかげで、不機嫌に遭遇することになったけど、それも人生の修行だと思おう。ひょっとして、神さまの狙いはここか。彼らに健康の有難みを思い出させると同時に、私の傲慢を思い知らせる。
もっと、謙虚に生きよう。
ほんと、夫も娘も命に関わるような怪我でなくて良かったと思う。階段から落ちても、頭は打たなかったし、骨も折れていない。熱は出ているけど、仕事ができないほどじゃない。娘も、靴が履けないけど、裸足なら歩ける。それでも、痛みのない体がどれだけ有難いかは分かるだろう。
私は、彼らを如何にサポートできるかを考えなくちゃいけない。苦手だけどやるしかない。いつも娘に頼り切りで、自分じゃ何もしてこなかったから、夫の面倒をみることもしてないし、っていうか、苦手なんだ。介助するの。でも、そうも言っていられないから、とりあえずは頑張るけど、多分、衝突するんだろうと思うと気が重い。
マジで家族に怪我や病気を与えるのであれば、代わりに私が引き受けたい。家族には元気でいて欲しい。私にとって家族とは、多分、これが私の欲しかった家庭なんだろうって思わせてくれるものであって、その大事な家族は守りたいと思っても当然だろう。
余命宣告を超えて生きていて欲しいと思うし、怪我なんてして欲しくないし、今の状態はあまりよろしいとは言えないけど、神さまの御心を信じる。
私が、いつも健康をお守りください、健康を祝福してくださいって祈るけど、だから、軽症で済ませてくださったとも考えられる。どんなことがあったとしても、私は主を信頼する。
娘が病院から帰ってきたみたいだ。大変ことにならなかったことを感謝しよう。
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