私が住んでいるところは住宅街で、壁が薄いのか、外で話している人の声が丸聞こえする。会話の内容までは、聴きとることはできにまでも、甲高い声でお喋りしているのはよくわかる。決して大声で喋っているわけではないんだろうとは思うけど、そういった話し声が怖くて怖くて堪らないんだ。
家と家との距離が近過ぎて、カーテンも窓も開けたことがない。唯一、開けるのは、洗濯物を干す縁側の窓だけ。そこも、洗濯しない日は閉め切って、外から見えないようにしてある。これだけ、住宅が密集していると、騒音トラブルとか起きそうなものだが、今のところそういった話は聞かない。私が引きこもっているから知らないだけかもしれないが、大きなトラブルがあれば回覧板で回ってくるだろう。
外で話をするのは、その人たちの権利だ。私がとやかく言える問題ではない。でも、怖いのだ。多分、どうでもいい井戸端会議なんだろうけど、話声が怖い。目の前の道路は通学路になっていて、子供の声も怖いと感じている。特段、怖がる必要があるわけではないが、恐怖に身が竦むのだ。だから、朝夕の通学時間帯は私にとって地獄でしかない。子供たちの歓声が心を壊す。子供に騒ぐなって言うつもりもないけれど、怖いと感じる人間もいることは分かって欲しいとは思う。
怖いと感じるのは、多分、病気のせいなんだろう。井戸端会議をしているご婦人たちも、決して私の悪口を言っているわけではないだろうし、子供たちも悪気なんてこれっぽっちもないのだ。それが、理性では理解しているのに、感情が付いていかない。いつも心臓がバクバクして休まる暇がない。もうちょっと防音のいい家が良かったと心から思う。これじゃ、私の身が持たない。
それにしても、朝からよくもまあ、くっちゃべることがあるものだ。私は近所の人にも会いたくないから、なるべく人がいない時間を見計らって新聞を取りに行ったり、手紙を取りに行ったりするくらいなのにと感心してしまう。
おそらく、健全さでいったら、彼女たちの方が健全なのだろう。でも、私自身はお喋りするつもりもないし、挨拶することすら苦痛に感じる。それこそ、人家のないところででも暮らせって言われそうだけど、それは嫌なのだ。ある程度、都会で、それでいて静かな環境のところで暮らしたい。お喋り好きの人たちが悪い人だとは思わないけれど、付き合いたいとか一切思ったことがない。
声が怖いのに、話すなんて、もっと怖い。ひっそりと息を潜めて生活しているのに、何で、わざわざ参加しなければならないのか。もし、私が井戸端会議に参加するようなことがあったら、私の声も響くから、きっと誰かの家に届いて、そこに住んでいる人を不快にしてしまうに違いない。まあ、気にしない性格だったらいいけれど。
私にように、怖いものが多いと、生きていくのがそれだけ大変になる。生きているのが苦痛に感じることもある。でも、それらはすべて、病気がなせる業であり、多分、本心ではないんだ。もともと、人付き合いの上手な方ではないが、病気になってからますます苦手になった。そして、怖くなった。物音のすべて、車の走り去る音さえも、心がざわつく。
自分でも異常だとは思う。拡声器から流れる音が悪口を言われているように感じたりするのは、明らかにおかしい。おかしいと分かっている分、まだ、正気だということか。それでも、選挙の時は、苦痛で仕方なかった。候補者の名前を連呼しているだけなのに、怖いのだ。今は廃品回収車の声に怯えている。
何故、こんなにも怖く感じるのか。それは分からない。ただの話し声だ。本来ならうるさいとも感じないレベルだろう。それなのに、怖い。
都会の雑踏を怖いと感じたことはないのに、不思議な話だ。ご近所の人たちは、それだけ身近な存在ということなのだろうか。でも、親しいご近所さんはいないし、隣の人の顔すら覚えてはいないのに、身近っていうのも違うような気がする。
それにしても、よく、飽きもせず、喋ることがあるものだと感心してしまう。そんな暇があるのなら、私だったら、自分のしたいことをしていた方がいい。近所付き合いができない人間は住宅街に住むのは間違っていたんじゃないかとも思う。決して悪い人たちが住んでいるわけじゃない。でも、怖いものは怖いのだ。
町内の自治活動も大嫌いだ。うちは活動免除になっているけれど、以前、活動していた時には娘にすべてやってもらって、私は隠れている程度には苦手だった。まったく、自治活動に何の意味があるのかが分からない。
やっと、表が静かになったようだ。少し、気を楽にしよう。怖くても声が私に危害を加えるということはない。それは分かっているんだから、もう少し、気楽に構えることが出来たらどんなにいいだろう。
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