苦しい時の神頼み、なんて言葉があるように、困った時だけ神仏に祈るなんていうことがあってはいけないと思うんだよね。私は仏教のこともイスラム教のことも、それこそキリスト教のことも、まともに分かってはいないけど、何でもない日、困ったことが起きていない日でであっても、自分が信じる神様とか仏様とかにちゃんとお礼を言って祈るべきなんじゃないかと思うんだ。
困ったことが起きた時だけ祈っても、それは信仰とは呼べないと思うし、そんな祈りを聞き届けてくださるかどうかなんて分からない。神様は気前のいい方だから、願って物はすべて叶うって、どこかの牧師先生の書いた本には書いてあったけど、その前提として、本当に信じているかどうかっていうのがあるんじゃないかと思う。
それに、神様の助けは思いもよらぬ形で訪れたり、まったく自分の願う道とはかけ離れたものだったりして、失望してしまうこともあると思う。でも、だからといって神様はいないっていうことにはならないだろう。決して蔑ろにしてはいけないと思ってる。
こんな不敬虔なクリスチャンである私でも、讃美歌を流したり、日々、祈ったり、感謝したりしているわけで、ほんと、それだけのことでもいいと思うんだ。神様との交わり、これって大事だと思う。教会に行くことだけが全てじゃないって思わせてくれたには、とある、教会を持たない牧師先生のYouTubeのメッセージなんだけど、短いメッセージの中に、刺さるものがいっぱいあって、自分がクリスチャンで良かったなって思ったんだ。
仏教では、確か神様はいなかったと思うから、仏の加護を忘れたらいけないと思う。昔は家に仏壇があるのが普通で、日々、祖先の霊に線香を供えて手を合わせたものだ。私も、実家は仏教徒だったから、子供の頃には、当たり前のように手を合わせていた。
いいことがあった時も、悪いことがあった時も、それこそ何もなかった平和な日でも。でも、今、仏壇のある家も減ったんじゃないかと思うんだ。実家にあった仏壇も、位牌も、母が亡くなった時に仏壇処理業者に頼んで処理してもらったし、母も私も妹も洗礼を受けたクリスチャンで仏壇とは縁が切れていたからね。
でも、実際、あの仏壇はただの箱だったような気もする。魂入れもしてなかったとか聞いたことあるし。親戚中探しても、誰1人、仏壇を引き取るという人はいなかったんだよね。みんな歳も歳で、叔母もクリスチャンで、もう1人の叔母はノンクリだけど認知症で、結局、先祖の霊に手を合わせるなんて10年以上やってなかったんじゃないのか?
よく分からないけど。ほぼ、絶縁状態だから、生きているのか死んでいるのかも分からない。お寺に墓があったはずだけど、誰が叔母を墓にいれるんだろう?私、お寺の場所も覚えていない。先日、従兄のお父さんが亡くなったらしいけど、それ以上のことは知らない。葬式の知らせも来なかったし。
とにかく、どんな宗教を信じていようが、神様を蔑ろにするのは良くないことだと思うんだ。
信じるものが違っても、それによって排除するっていうのはいけないことなんだろうとは思う。でも、私はユダヤ教徒イスラム教が大嫌いなんだ。正確に言うと律法主義が嫌いなのかもしれない。まあ、ユダヤ教もイスラム教もキリスト教も神様は一緒のはずなんだけどね。
律法主義は極端でダメ。受け付けない。時代と共に解釈を変えられる緩いキリスト教で良かったって思えるもん。棄教することが死刑になる国もあるんだよね、イスラム教国には。極端だと思う。信仰の自由が保障されている日本で良かったと思う。ただ、イスラム教徒のあの熱心さは見習うべき点があるとは思う。
常に、神様を真ん中に置き、その教えに従って生きるのは、見習うこと。好き嫌いは別にして。神様を蔑ろにすることがない点は見習わなくちゃいけない。
これは、多分、クリスチャンの悔い改めに似ている問題だと思うんだ。罪を悔い改め、主に立ち返ること。日々、この繰り返し。これが難しいんだけどね。常に悔い改めて主に立ち返って、祈って赦しを乞う。罪を犯さない人間なんていないだろうから、知らずに犯している罪も赦してもらう必要があるんだ。
それなのに、困った時だけすがるのは虫が良すぎはしないか。常日頃から、ちゃんと交わりの時を持って、蔑ろにすることなく生きるべきなんじゃないのか。親しく交わっていたって艱難はくる。それを感謝して受け取ることが出来たら、素晴らしいことだろう。
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