イエス様を救い主と信じると、改めて祈って、もう1度、原点に立ち返ってイエス様を受け入れた。そうしたら、何も状況は変わらないのに、心が軽くなったんだ。これが慰めなんだろう。根本的な問題は何一つ解決していないし、時間が経てば経つほど悪い方へと向かう気がするんだけど、私の心は何故か軽い。
自分の罪は赦されているから、この状況は罪故に起こったことではなく、神様が何かの目的のために行っているんだろうって心から信じられる。私にできることはお祈りすることくらいで、他にできることはないけれど、きっと私の祈りを神様は聞いてくださる。
私は、祈らない夫や子供たちの分もとりなしの祈りを祈る。私を助けてくださいではなく、私たちを助けてくださいって祈る。私の罪をお赦しくださいではなく、私たちの罪をお赦しくださいって祈る。当たり前のことなのかもしれないけど、私1人が救われても、自分の大事な人達が救われないんじゃ意味がない。
でもね、本当に主イエス様が救い主だと心の真ん中に置いたら、信じられないくらいの平安が訪れたんだ。きっと何とかなるっていう根拠のない自信とか、きっと上手くいくっていう思いとか、絶望的な気持ちが消えて明るい気持ちになったことが、素晴らしいことだと思うんだ。
疲れたもの、重荷を負うものよ、イエスの前に出ていこうっ歌詞が出てくる聖歌もあるし、新約聖書のにも書かれているけど、もし、今、どうしようもないことで悩んでいることがあって、救われてたいと思っている人がいるのなら、近くのキリスト教会へ行くことをお勧めする。イエス様を受け入れたら、状況が変わらないにしても心の持ちようが全然変わるから。
そして、救いも必ず来るから。私はほんとに不敬虔なクリスチャンで、教会にも通わないし、YouTubeで配信される礼拝メッセージもクロスステッチをやりながら聞いているだけだし、電気代を考えてしまって、讃美歌や聖歌を流すこともできないでいるし、ロクでもないけれど、しっかり救われていると実感しているもん。
ほぼ無理矢理の信仰告白をさせられて、教会に通うようになって洗礼を受けて、でも、どこかで疑っていたのかもしれないと思う。
主が私の罪のために死んでくださった、そして私の罪が赦されたってことを。普通は信じられなくて当然だと思う。神のひとり子っていうことだけで胡散臭いじゃん。それが、十字架に付けられ死にて葬られ、3日目に死人のうちより蘇り、天にのぼり全能の神の右に座したまえる。なんて言われても、にわかに信じられるものじゃないと思うんだ。
それでも、信じることが大事なんだ。その死によって私たちは神様の前に赦され真白きものとされたと。
クリスチャンになったから、イエス様を信じるようになったからといって、平穏無事な生涯が保障されるわけじゃない。もしかしたら、かえって試みの多い人生になるかもしれない。でも、それでも私は洗礼を受けて良かったと思っている。
罪咎を赦され、神の子となりたる、わが魂の喜び、比べうるものなしって聖歌があるけれど、そうなんだよね。すべて赦されて、主に感謝して讃美して、どんな中でも平安を得ることが出来る。そして、必ず、救ってもらえるという確信が持てる。
死すら、怖くはなくなる。天国で永遠の命をいただくことが出来るんだから。この世のことなんて永遠に比べたらほんの一瞬。瞬きする間の時間さえないかもしれない。それを考えたら、死は救いだって気になる。まあ、だからといって自分で自分を殺してもいいとはならないのがキリスト教。
でも、聖書のどこにも、自殺してはいけないとは書かれていないんだよね。自殺が罪っていうのは、おそらく、汝は殺してはならないっていうところからきているんだろうと思うけど、本当のところは分からない。牧師先生も解説してくれたことはないし。
でも、神様が決めた寿命は全うしないといけないんだろう。どんなに辛くても。
主イエス様が共に歩んでくださるという確信を持てれば、どんなに辛くても生きていかれる。私はそう信じている。