たとえ、今月、もう来月になるのか、乗り切ったとしても再来月はどうやって生きる?もう余力はないから、今、誰かに助けてもらっても、再来月で力尽きる。いつまでも、このままじゃいられない。値上がりする電気代に、高騰するガソリン代。払いきれない。もう、ここで詰んでる。
家族はみんな楽観的だけど、それとも楽観的なふりをしているだけなのかもしれないけど、私に楽観的になれというのは無理だ。もともとネガティブにできていて、必要以上に神経質。今更、その性格が変わるとも思えない。最悪の事態を想定して生きるのは、妹と一緒かもしれないけど、彼女と一緒は正直嫌だ。
負い目があるから、何も言わないけど、ふざけるなって言いたい時もある。ここで私の命が尽きたら、後悔するのは彼女の方で、私じゃない。生きているのは、しんどいし、でも死ぬのも大変そうだ。死は怖くないけれど、積極的に死にたいかって言われたら答えはNOだ。苦しんで死ぬのは嫌なのだ。母のようにぽっくり逝きたい。
だけど、このままだと苦しんで死ぬことになるだろう。生きたいという気持ちと、もう無理だという気持ちで、ごちゃぜになった感覚の中で死ぬんだろう。死そのものは怖くないけど、その過程が怖い。あっさりと逝けるわけじゃないって分かっているから。
まあ、すべては神様の取り計らいによるのだ。
来月死のうが、再来月死のうが変わらない。状況が動かない限り、何一つ変わらない。誰のことも責めることはできないし、強いてあげれば、見切りをつけるのが遅過ぎたということか。資産も何もないから、生き残るのは難しい。愛でお腹は膨れないし、暑さも寒さも防げない。福祉は期待できないし、犯罪に手を染める勇気もない。
だから、結局は何もせず、どうにかなるのを待つだけということになるのだ。こんな生活がいつまでも続くとも思えない。それは、長いこと修羅場をくぐり抜けてきた勘がそういっている。この勘が外れたら、もう打つ手なしだ。
自分だけ生き残る方法ならある。でも、その方法は極力使いたくはない。それは、裏切りに近い行為だし、自分さえよければ人を犠牲にしてもいいのかという良心の問題とも関わってくる。この手を使って生き延びたとしても、私は一生後悔するだろう。
それは、夫を捨て子供たちを捨てるのと同義語だから。夫はともかく、子供たちを見捨てるなんてできるはずがない。夫の場合は自業自得だと言い捨ててしまうこともできるかもしれないけど、子供たちのことは無条件で愛しているから。
まあ、人間いつかは死ぬのだ。その死に方がどんなものであろうと、死ぬことに変わりはない。苦しんで死ぬのが嫌なだけで、でもその苦しみも、永遠の時から見たら瞬きの間もないくらい短い間に過ぎない。
永遠に地獄の業火で焼かれることを考えたら、一瞬の苦しみを耐える方がいいに決まっている。だから、私はまだgive upしない。もう少し頑張ってみる。本当にダメなら、自らが手を下さなくても死は訪れるのだ。幸いにして、妹と絶縁状態になったわけじゃない。後のことを託すことくらいはできるだろう。
こんな生活は経験しないに限る。輪廻転生など信じてはいないが、今度、もし生まれてくることがあったら、こんな人生だけは選ばないでおこう。それとも、何か使命があって生まれてきたのか。この歳だ。その使命も済んでいるだろう。もう、いつ何があっても驚かない。昔なら、私は完全なお婆さんだ。こんな年齢まで生きる予定はなかったのだから、もう十分だろう。
孫の顔は見てみたかった気もするが、それもピンとこないし、子供たちが結婚するところを想像することもできない。いつまでも、小さな子供でいるような気がしてダメだね。結局は子離れできていないということか。
子供たちには幸せになって欲しいのに。それを阻んでしまっていることに対して、申し訳なさで一杯になる。