私には、この世には帰る場所がない。でも、天の御国に帰ることはできる。今、無性に帰りたいと思うのは、教会の礼拝。信徒さんたちに話しかけられるのは嫌だけど、静かに礼拝を守りたいのだ。今までだって帰りたかった。でも、この辺りには徒歩圏内に教会はないし、母教会は遠いし、それに、日曜日は1番忙しい日で、留守にすることが出来ない。
YouTubeでメッセージを聴くのだって、リアルタイムでは無理。月曜日とか火曜日とかとにかく1週間の間のどこかでアーカイブを聞く。不敬虔なクリスチャンだから、真剣に視聴したりしてないけど、それでも、突き刺さるメッセージに出会わないわけじゃない。
毎朝、小さな御言葉を聞く。小さな音で夫にバレないように。違う。私はこんな生活がしたいわけじゃない。日曜日には教会へ行って、ちゃんと礼拝に出席して讃美して、心洗われて1週間を始めるんだ。夫の機嫌なんて気にしないで、信じているものに従いたいんだ。でも、それが叶わない。
帰りたい。どうか、私を救って欲しい。教会へ帰るだけでいいんだ。それは神様の側に帰るということのような気がしてる。
もちろん、神様は私のような不敬虔なクリスチャンでも、見捨てたりはなさらないだろう。側にいてくださるだろう。でも、礼拝のあの雰囲気を今一度味わいたいのだ。あの空間には聖霊が宿っている。
教会に帰れば、今の艱難が解消するわけではない。状況が変わるとは思えない。でも、心の持ちようはかなり大きく変わるだろう。自分には帰る場所がある。死んでも天の御国に行かれるという確信が持てるだろう。今でも、死んだら天国に行くと思っているのだから、その確信が更に強固なものになるだけかもしれないが、1人で祈るのと大勢で祈るのでは何かが違うのだ。
バージョンアップしていないから、今の主の祈りは空では祈れない。聖書も新共同訳しか持っていない。最新バージョンの聖書が欲しくても高くて手が出せない。神の言葉を聞くのに、お金がかかるっていうのもおかしな話だ。
母教会も、いろいろ変わったらしいし、死ぬ前に1度は行っておきたい。それを邪魔するのが夫なわけだけど、何故、私が留守にすることをここまで嫌がるのか。私が何をするっていうんだ。私は礼拝に出たいだけで、他のことは望んでいない。
教会へ行くということ自体が気に入らないのかもしれない。日曜日は忙しいし、その中で時間をとるわけだから、それも気に入らない要因の一つかもしれない。私がキリスト教を信じていることも、多分、夫の機嫌を損ねる要因なんだろう。彼は信じていないから。
まあ、単位をやるから受洗しろっていう教授も教授だし、単位のために受洗した夫も夫だ。信じてもいないのに、受洗するとか罪深くはないか。
少なくとも、私はキリスト教に救われた。この先も、ずっとイエス様と歩むことで救えわれるんだろう。どんな死に方をするにしても、きっと天国の宴会にに招かれるのだ。それは、自分の行いで救われるのではなく、御子イエス・キリストを信じることで救われるから。行いだけだったら、誰も天国へは行かれない。
無性に、帰りたくなる。教会もだけど、天国へ。自分は天から降りてきて、人として生きているのではないかと思うくらいには。もちろん、私には何の権威もない。ただの人だ。救い主でもなければ、何でもない。罪深い人間に過ぎない。
でも、帰りたいと思ってしまうのだ。永遠の平安のある場所へ。
もう、十分に生きたし、濃い人生だったと思う。もう、これ以上のストレスには耐えられないだろうとも思う。だから、イエス様、迎えに来てくださいって思ってしまったとしても、仕方ないだろう。充実した人生だったと、空虚なことのない人生だったと思う。
汝は殺してはならない。
この言葉が、歯止めになっている感は否めない。まあ、いつかは帰れるのだ。その日を心待ちにして、今日も主とともに歩もう。